研究活動は、学術コミュニティのなかで研究倫理を保証する規則や原則(それが明示的なものであれ、暗黙のものであれ) にのっとって行われるものです。ひとりの研究者の振る舞いは、これまでの教育や学習経験の積み重なりであると見なされます。過去の経験は、 真理の探究や科学的な発見に向かう姿勢に影響を与え、正しい道に導いてくれるものです。しかし、過去の経験が研究を支えるのではなく、 誠実な取り組みを阻害する場合もあります。
研究不正が起こる裏には無数の理由が交錯しますが、研究公正を遵守するか逸脱するかの意思決定にかかわる一般的な要因は、 その人が大切にする価値観です。事実、2019年のスイスの研究では、 研究者が研究公正に対する考えをどのようにつちかったのかを調べた結果、「幼少期の教育としつけが、 研究公正への態度に大きな影響を与えている」と述べています。
世界的に激化する研究競争と、「パブリッシュ・オア・ペリッシュ(発表するか、それとも死か)」のプレッシャーのなかで、 研究不正への関心の高さと、それを見つけ対処するために費やされる労力はどれほどのものでしょう。すでに研究者になっている人たちを対象に、 不正リスクを減らすために、研究方針を正式に示したガイドラインや研修プログラムを増やすことは大切です。しかし、 もっと初期の指導を見直すことにも利点があるのではないでしょうか? 中等教育や学部生の期間に、 価値観や倫理観の形成にあわせて研究方法の教育にもっと力をいれるべきなのではないでしょうか?
研究不正を防ぎ、不正行為によりもたらされる損害をなくすための早期教育について前後編で考えていきます。前編では、 個人の価値観が研究公正にどのような影響を与えるか、また規範と価値観の研究構成における役割の違いについてご紹介します。
研究公正(リサーチ・インテグリティ)と個人の価値観との関連研究者、あるいはこの問題に関してはどのような人であれ、倫理行為への責任を果たすには、その基礎となる価値観を理解する必要があります。 正直、信頼、公正、敬意、責任、勇気。これら6つは、International Centre for Academic Integrity (ICAI)が学術と研究の誠実さに関わると定義する価値観で、知を追究する研究者と学術界にとって倫理的な枠組みを示すものです。 これらの価値観は学術や研究に限らず、私たちの幼少期からの人生すべてに関わっています。価値観は自然と根付くもので、 価値観の欠如も同様にその人生に影響を与えます。研究公正に関わる多くの価値観が研究者になる前にすでに形成されているのも当然です。 幼少期の主観的体験や個人の特性が成人期まで影響するのです。
『Is research integrity training a waste of time?(研究公正のトレーニングは時間の無駄か)』という刺激的なタイトルの記事のなかで、著者のジェマ・コンロイは、 前述のスイスの研究を取り上げ、大人になってからの研究公正の正式な研修に比べて、幼少期の教育と個人の特性こそ、 研究者がどれだけ倫理的に研究に取り組むかを予測する優れた因子であるとの研究結果について触れています。その論文の著者であるプリヤ・ サタルカル博士とデイヴィッド・ショー博士は、スイスの5つの大学の、若手・中堅・ベテランの3つのレベルの研究者を対象に、 倫理的な研究に対する態度や行動に何が影響を与えるか、意識調査を実施しました。コンロイの記事によると、その調査の「回答者の約40%が、 学部課程で研究公正のトレーニングをすべきだと答えたが、その概念を研究室で応用するには、 生まれながらの誠実さと公平性が必要であると主張した」そうです。 大学生活の早い段階で研究方法に特化した訓練を取り入れることが支持される一方で、それが成功するかどうかは、 価値観と性格が大きく発達して自我が確立される、大学入学前の経験が影響していると認知されています。
研究公正(リサーチ・インテグリティ)の価値観と規範倫理に即した研究を行うモチベーションについて考えるときに、もうひとつの考慮すべきことは、「価値観」と「規範」がいかに対立し、 いかに合致するかという問題です。社会力学の研究では、価値観とは「その人が人生で大切にするもの」で、規範とは、 集団や社会のなかで受け入れられ報酬を得られるというモチベーションを人に与えるもの、と区別されています。研究の規範や方針は、 研究者が研究の厳正さを守るための約束事に従い、信頼に値する研究成果を発表するための中心的なガイドラインとなるものですが、 それらは完全ではありません。このことは、オランダの研究者グループによる2019年の研究で明らかにされています。かれらは、「一般的に行動規範は、 別の方針を示す他の規範がある場合、それらをどのようにうまく処理すべきかを具体的に示さない」という前提に基づいて、 研究ガイドラインの限界を指摘しています。
研究公正に対する価値観は、外部から押しつけられる規範より、個人の内面のさらに深いところに潜む、という考えは、アメリカの化学者・ 教育者のジョエル・H・ヒルデブランドの思想にもうかがえます。彼は、「(科学者は)良識と誠実さに突き動かされる。そこにルールはなく、 誠実さと客観性の原則があるのみで、事実以外のすべての権威を完全に拒否する」と述べています。研究の行動規範に明示されるこれらの「ルール」にくわえて、 個人の価値観や原則が研究公正の責任を果たすことの原動力になっていることが示唆されています。もちろん、 そのような価値観が不正行為への抵抗感をうみだすことは言うまでもありません。
後編では、倫理的な研究行動の普及に寄与する可能性を持つと言われる「前向きな研究公正」という概念、 また研究公正の文化を築くためのアイデアを事例を交えてご紹介します。